兵庫県明石市西部の溜池灌漑に関する研究

 

酒井 多加志

北海道教育大学釧路校地理学研究室

                                

The study of reservoir irrigation in the western part of Akashi city, Hyogo prefecture

 

Takashi SAKAI

Department of Geography, Hokkaido University of Education, 085-8580, Japan

 

 

Summary

    The purpose of this study is to elucidate characteristics on reservoir irrigation systems, taking the western part of Akashi city as an example. This irrigation system consists of Kansei-ike which is a dam type reservoir, Shonai main canal, some shallow irrigation ponds called sara-ike, and many small irrigation canals. They organically relate and function most during a drought. This system started in 1800 when Kansei-ike was completed, but its function is being lost because of farmland readjustment projects, which started in 1983, and due to urbanization.

 

 


T はじめに

 

 水稲の栽培には多量の灌漑用の水を必要とするが、この水をすべての水田に公平に分配するには、高度な灌漑システムを必要とする。溜池を中心とした灌漑システムはその代表的なものであり、特に播州平野や讃岐平野や奈良盆地において発達している。そこで本稿では、播州平野に位置する明石市西部を事例に、溜池を中心とした灌漑システムを紹介する。

 本稿で対象とする溜池は谷池と呼ばれるダム式の溜池と、皿池と呼ばれる周囲に土手を築いて作られる溜池に分けることができる。本稿では前者をダム式溜池、後者を皿池式溜池と呼ぶことにする。ダム式溜池は貯水池として、皿池式溜池は貯水池とともに用水の中継地としての機能を担っている。そしてこれらは水田とともに洪水の調整機能も有している。また、溜池は人工的なものであるが、その中には複雑な生態系を有している。しかし、これらの溜池と溜池と結びついた用水路網は近年の土地区画整理事業により、次々と失われている。本調査地域においても溜池は比較的残されているものの、用水路網はかなりの改変を受けている。そこで、本稿では明石市西部において溜池を中心とする灌漑システムが機能していた1973年を調査対象とする。

 

U 明石市西部の概観

 

  明石市は神戸市の西に位置する人口約29万人の商工業都市である。1960年代の高度経済成長とともに神戸市や大阪市の衛星都市としての性格を強め、宅地化が急速に進んだ。明石市西部においても1961年に山陽本線魚住(うおずみ)駅が設置されてからは、駅北部の丘陵地が住宅地として開発された。この丘陵地は印南野(いんなみの)台地の南端、大久保低位段丘にあたる。段丘面は瀬戸川、赤根川等の小流により開析され、かつ粘土質・砂利質の悪地のため地表水に乏しい。また地下水が深いため、近世まで未開発の草原のまま取り残された。集落は海岸部に播摂五泊の一つである魚住の泊が漁村として発達していたが、内陸部には山陽道が通っていたにもかかわらず顕著なものは見られなかった。しかし、江戸時代に入ると溜池を基本とした水田開発が行われ、そこで生産された明石の米は最上級とされるまでに至った。この良質の米を用いての酒造も行われ、かつては灘と並び西灘と呼ばれる酒の生産地であった。現在もいくつかの酒造会社が見られる。

 

V 調査地域(西岡・中尾・西島)の溜池灌漑

 

 V−1 溜池灌漑の概観

  明石市の西部に位置する西岡、中尾、西島の3集落では、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 明石市西部(西岡・中尾・西島)の溜池灌漑(1973年)

 

寛政池、瀬戸川、庄内掘割とこの掘割と結びついた皿池式溜池、そしてそこから延びる用水路が農業灌漑システムを構成している(図1)。平時においては瀬戸川から取水した庄内掘割の水および皿池式溜池の水を使用するが、旱魃時においては上流部に位置するダム式溜池である寛政池の栓を抜き、この水を使用する。寛政池は1800年に瀬戸川の水の貯水を目的に建設されたが、庄内掘割と皿池式溜池の起源は資料がなく不明である。また、どちらが先に作られたかも不明である。調査地域に限らず、明石市の溜池はほとんどその起源がわかっていない。以下、寛政池、庄内掘割、皿池式溜池についてみていく。

 

 V−2 寛政池

 寛政池は大久保低位段丘面が瀬戸川によって開析された谷に作られたダム式の農業灌漑用の貯水池である(写真1)。寛政池が作られる前は西島、中尾、森1)の3ヵ村は、尻ノ池、長谷池、皿池等の溜池や瀬戸川から引かれた庄内掘割の水を使用していた。しかし、この3ヵ村は水路の末端部にあたっていたため、旱魃時には水が不足し、しばしば水争いが生じた。そこで、寛政121800)年正月、明石藩郡代所は3ヵ村に対し、農業用水池の造成についての計画書を提出するよう命じた。そこで3ヵ村の庄屋を中心に新池築造の候補地を求めた結果、瀬戸川上流部に位置する清水河原が選ばれた。この河原はダム式溜池の建設に適した地形であったこととともに未開拓地であったことが、候補地とされる要因となった。新池は川幅28間(50.9m)、岸の高さ10尺(3m)の瀬戸川を高さ2間半(4.5m)、長さ32間(58m)の堤防(写真2)で横切り、さらに川底を2間(3.6m)掘り下げることによって建設することとした。工事は4月16日に着工され、11月18日に竣工した。これによって、24,940坪(149,9043)の貯水が可能となった。この新池は当時の年号から寛政池と名付けられた。

 寛政池は3〜5年に一度、栓が抜かれた。栓はダムの堰堤の中央付近、水深約8mのところにあった。栓の直径は約80cmで、普段は漏水を防ぐため、周囲に土嚢(どのう)が積まれていた。栓の周囲4箇所に水面にまで至る木が固定され、水面上にはロープを巻き上げる簡単な装置がつけられていた。栓を抜く際、泳ぎの得意な人が潜って栓にロープを掛け2)、井戸の水を汲み上げる要領で栓を抜いた。水はすべて抜かれるのではなく、底から3分のところにある石柱までとされた。1893年夏の大旱魃では、多くの村で水不足に陥ったが、3ヵ村ではほとんど被害がなかった。そこで、翌年の4月に寛政池紀功碑を建立し、先人の功績を讃えた。1927813日に寛政池の栓が抜かれたが、その時の記録によると、寛政池から長谷池まで水が届くのに要した時間は4時間23分であった。寛政池の水は6日後になくなったとのことである。

 

 V−3 庄内掘割

 寛政池から流れ出た水は約2km瀬戸川(写真3)を下ると、庄内掘割の取水口(写真4)に至る。かつてはこの取水口付近に土嚢が積まれ、水は掘割に流れ込むようになっていた3)。掘割は取水口から印南野台地の末端面に沿って南東方向に延びていた。堀割は田畑の間を通っていくが、途中各村の石数に応じた長径を持つ樋管がつけられ、田畑へと水を導いた。また、掘割の管理に泥上げがあったが、これも各村の石数に応じて人夫を出す石数割がとられた。すなわち、1人6尺立方を基準とし、人夫を出せない場合は収穫の分引きが行われた。この慣習は最近まで残っており、1日の労働を3500円として計算され、この金で掘割の管理が行われていた。旱魃時には、各村の代表者が話し合いによって寛政池の水を抜く時間を決めた。そして不正防止のために各村の田畑へ流れ込む水門には各々他村からの2人が水門を開けるとともに番をすることになっていた。堀割の水は最後に尻ノ池と長谷池へと流れ込むが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 中尾の溜池と用水路網(1973年).(明石市市役所農水産課の資料および聞き取りにより作成)

 

この両池への水路には水門が設けられず、自由流下となっていた(写真5)。

 以上のように、庄内掘割は村落間の利用に際しての差はなく、表面上は平等に水が分配されていた4)。また違反者に対しては米8斗の罰金が科せられた。

 

 V−4 皿池式溜池

 皿池式溜池(写真6)は平地に土手を築き、その中に水を貯えたため、水深は浅い。そのため貯水量は面積に比べて多くはない。奈良盆地の溜池の形が正方形や長方形であるのに対して、この付近の溜池は不定形である。この付近も条里制が敷かれていたが、奈良盆地のように池の形からは推察できない。

 これらの溜池は各村の水利組合に属している。すなわち、中尾の竜ヶ池と尻ノ池と皿池は中尾の水利組合に、長谷池と大池は中尾と江井ヶ島(えいがしま)の水利組合に、西島の皿池は江井ヶ島水利組合に属していた。ここでは、中尾の溜池灌漑(図2)について見ていく。

 中尾は前述した寛政池から庄内掘割を経て、尻ノ池、皿池に至る用水の他、鴨谷池の水も利用していた。鴨谷池の構造は寛政池と同じダム式であるが、規模が小さく寛政池ほど重要ではなかった5)。鴨谷池は山陽本線魚住駅の北に位置するが、ここは大久保低位段丘面の末端部にあたる。現在は池の周囲はすべて住宅化されている。この鴨谷池を出た水は一旦竜ヶ池に入り、ここから新池に入る。新池からは2本の樋管が庄内掘割の下を潜り、一方は尻ノ池へ、他方は皿池へと通じる。尻ノ池へは前述したように庄内掘割からの水も入り、余った水は余水吐から半蔵池へと流れ出る。尻ノ池には樋管が1本あり(写真7)、ここから流れ出た水は主に中尾の田畑の西側を灌漑している。皿池の水は新池以外に庄内掘割から分岐した用水路の水が流入する。皿池には樋管が4本あり、主に中央部の田畑を灌漑している。この他、長谷池に1本の、大池に2本の樋管があり、東部の田畑を灌漑している。2002年現在、これらの樋管は残されているが、樋管から延びる用水路は区画整理のため、ほとんど原形をとどめていない(写真8)。

 

  V−5 その他の灌漑用水

 明石市には庄内掘割以外にも、以下の掘割があるが、いずれも起源がはっきりしている。

  林崎掘割(1658年竣工)

    明石川の水を引き、鳥羽にある野々池に貯水する。

  鳥羽新田掘割(1671年竣工)

     林崎掘割からの支流。

  大久保掘割(1707年)

    明石川からの新溝。

 

W おわりに

 

 本調査地域は1983年に区画整理事業が始まったが、これにより景観は一変し、昔の面影は見られない。この地域は第2種住居地域に指定されており、田畑としての利用も可能である。市としては、いずれはすべての田畑も宅地化にするとのことである。

 田畑の減少とともに用水路と溜池の必要性も失われてくる。庄内掘割は住宅地を通過するため、生活排水も入り込んでいる。農業用水路としてよりも生活排水路としての機能が大きいように思われるが、現状調査をしていないのでその点については不明である。

 溜池はその必要性の低下とともに徐々に姿を消している。例えば、竜ヶ池は保育園となり、西島の皿池は中学校と明姫幹線(国道250号線)の用地として半分が埋め立てられた。他の地域においても溜池の学校用地への転用が見られる。このように溜池は埋め立てることによって大規模な用地を得ることができるため、今後田畑の減少に伴い、ますます公共施設を初めとする大規模施設へと転用されるものと思われる。

 

謝辞

 

 本稿を作成にあたり、明石市中尾土地区画整理組合理事長の野口文雄氏、明石市役所農水産課の方々には大変お世話になりました。記して感謝申し上げます。

 

 

1)森村は西島の北にあった村で、現在は地名として残っていない。         

2)潜水夫に謝礼として米2斗が支払われた。

3)瀬戸川は取水口より下流は排水、掘割は用水とみなされていたため、土嚢を積み上げることができた。

4)各々の皿池式溜池は、水位の上限が決められていた。そこで中尾では溜池に水が入る前に予め溜池の水を田畑に流すことによって、より多くの水を得ていた。

5)西島にも安政池と呼ばれるダム式溜池がある。

 

参考文献

 

明石市中尾土地区画整理組合(1989):「中尾のすがた」日本ベースマップ工業株式会社.

谷岡武雄・山田安彦(1954):東播平野(加古川・明石川流域)の条坊(里)制について.地理学評論,27275-286

日本地誌研究所(1973):「日本地誌 京都府・兵庫県」二宮書店.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真1 寛政池の全景.上流から堰堤を望む.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真2 寛政池の堰堤.現在の堰堤は1970年に改修された.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真3 瀬戸川.下流方向を望む.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4 瀬戸川と庄内掘割の取水口.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真5 庄内掘割.尻ノ池(右)への分岐点.周囲は宅地化されている.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真6 皿池の全景.遠方の丘陵地は大久保低位段丘で宅地化が進む.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真7 尻ノ池土手.左に桶管が見える.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真8 区画整理された農地.農地よりも宅地としての利用が著しい.